Exhibition Footprint:ツァイトフォトサロン

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イメージ 展示名 開催期間 概要
グループ展「表現する女たち -6人の眼差し-」 2016年5月17日~2016年6月18日 彼女たちの作品に共通点はほとんどない。生きてきた時代も場所も、カメラも表現方法も異なる。唯一の接点は全員女性であるということぐらいだ。LGBTという性のアイデンティティの多様性を示す言葉が一般化したが、多様性と捉えるならば彼女たちが女性であることは、彼女たちの本質でありながら一方ではその個性を形成する一要素に過ぎない。だからこそ、6人の表現はここまで違っているのだ。このことは歓迎すべき驚きである。  1976年に「百花撩乱」という女性写真家10人の「男」を対象とした作品による展覧会があった。出品作家の一人であった石内都は次のように述べている。「女が写真を発表する時、男が語ることは女の写真家の希少価値についてであり、それをぬきにして女の写真を評価はしない(中略)女の希少価値とは無縁に男の中の一人の女ではなく多数の女の中の一人として、女同志のかかわり合いを緊張した関係で経験したことは、意味ある展覧会であったと思う」と。ちょうど40年前のことである。彼女たちはもう「男」を撮る必要はない。題材は自由だ。時代は確実に変化してきた。
辰野登恵子 作品展 2016年3月15日~2016年5月7日 辰野登恵子は日本を代表する抽象画家です。幼い頃から絵の才能を発揮し、東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻を経て大学院に進学、一昨年、惜しまれながらもこの世を去るまで常に絵画の道を突き進んできました。 辰野登恵子の作品を特徴づけるのは色と形です。日常の断片に対する些細な記憶をインスピレーションの源として、「自分から発した色、形、最良の形と色との出会い」を表現し、時に無意識の次元にまで遡り自らのイメージを形にしていきました。生前、辰野があるインタビューで発言した中に「最小限にして最大のものを語りたい」という言葉があります。繰り返し描き続けた丸みを帯びた楕円形の物体や四角いタワーのようなシンプルな形、そして観る者を包み込むかのような温もりと力強く生命力溢れる色彩。それは、辰野が無意識への長い旅路を経てつかんだ、絶対的なる形であり色なのかもしれません。 今回は120号Sサイズの油彩大作2点を含む約8点の作品を展示いたします。是非ご高覧ください。
井津建郎 写真展 「 Eternal Light - 永遠の光 」 2015年11月18日~2015年12月19日 鮭は川で孵化して稚魚となり、海を目指して長い旅に出る。やがて海で大きく成長した鮭は漁師の網や大型魚の攻撃をかいくぐり再び何千キロもの旅を続け生まれ故郷の川を目指す。そして必死の力を振り絞って川を遡り、ようやく産卵を終えたのちその生命の円を閉じるという。 インドで出会った人々、その多くはカースト制度の外あるいはその末端近くで信心深く日々を生きる人たちだった。そして生命の最後の数日を家族とともに解脱を信じて聖なるガンジスの畔で過ごし、河畔で荼毘に付されることを彼らは願う。孤児、寡婦、あるいは旅立ち近い老人、その境遇にもかかわらず信仰深く生きる人々に生命の尊厳を感じて、私は私自身にとって初めての人間ドキュメントと言えるこの作品を制作した。 夜明け前に見た荼毘跡に残る熾火の微かな瞬きが、あたかも生命を輝かせる永遠の光のように見えた。 井津建郎
オノデラユキ 作品展 「 Muybridge's Twist 」 2015年10月7日~2015年11月10日 この度、ツァイト・フォトでは東京都写真美術館での個展以来、日本では5年ぶりとなるオノデラユキの新作展『Muybridge's Twist』を開催いたします。 『古着のポートレート』から始まって『Transvest』、『Eleventh Finger』など、オノデラの作品には身体性への問いが見られます。今回の新作では今までのオノデラの技法を大きく展開させた、写真やデッサンによる特大のコラージュ作品で身体の迫力にせまります。  「画家や彫刻家の仕事は自身の身体の延長として、身体性がより素直なかたちで作品自身に発現されるが、写真の場合は被写体とカメラ、この二つに制約されるところが多く、作家自身の不器用な体というのものが結晶しにくい。仮に優れた写真家がシャーマンに成りきり、機械を使いながらも魔法のように身体性を盛り込んだイルージョンを作りあげたとしてもだ。ところで19世紀の写真家エドワード・マイブリッジは人間や動物の動きを細かく連続撮影することで今まで誰も見た事のない動きを定着することに成功した。カメラによって我々の視覚能力では捕らえられないヴィジョンが提示されたのだ。当時はどのような驚きであったのだろう。 私はさらに一歩進めて、身体とムーヴメント、あるひとつの身体に内包される見えない動きや一人ではなく複数の人間の動きを、たった一枚の写真として定着できないか、ということを作家自身による手作業、つまりアナログ作業で試みた。静止画像である写真を使いながら、振り付け師のように「コレグラフィー」することは可能だろうか?それらの身体はマニエーレンされたダンスのように大きくねじ曲げられるだろう。」(オノデラ)  ユニークなタイトルにも窺えるように新たな問いと表現方法を探りながらも、写真史にフォーカスを当てているオノデラらしい態度が感じられます。 今回の作品は、撮影 - デッサン - コラージュ、そしてまた撮影 - プリント - コラージュと幾重にもプロセスを積み重ねた多層的な手法で、最終的にキャンバス上に直に印画紙がコラージュされ仕上げられました。何よりも3mを超すその大きさと直感的でワイルドな肌合いは圧倒的な迫力をもって見る者に迫ります。 今春にパリの美術館(ヨーロッパ写真美術館)の個展で評価を得た作品も併せて展示致します。写真と絵画の境界線を行き来するこれら新作群をご鑑賞ください。
北井一夫 写真展 「 北京 -1990年代- 」 2015年8月28日~2015年10月3日 北井一夫は1944年に旧満州鞍山に生まれた。その翌年には引き上げで長崎へ辿り着き、少年期は東京で過ごした。 1965年に自費出版の写真集『抵抗』でデビューし、71年には新東京国際空港建設の反対を巡る三里塚闘争などを撮った『三里塚』を発表する。その対象が社会的関心事であることから、一見するとドキュメンタリー・フォトグラファーとして活動していたかのように見える。しかし、北井にとっての写真は表現以外のなにものでもない。「政治性はなくてはいけない。だけど僕はモノの存在感とかリアリティに対してもっと誠実にやりたい」という北井の言葉は心底本心なのである。そして『北京-1990-年代』はそのことがはっきりとわかる作品の一つといえよう。  彼が北京を初めて訪れたのは1972年のことだった。戦後まもなく北井を背負って引き上げてきた母は、北井に北京を夢のような場所だと語り聞かせたという。それから二十年の月日が経ち訪れた90年代初頭の北京は、急激な経済成長の最中、目の前で大都市へと変貌を遂げつつあった。もはや「(昔日の北京は)片隅で土埃をかぶり色あせて誰にも振り返られなくなっていた」。彼はなぜこの時期に北京へ行ったのか? それは単なる偶然かもしれないが、89年に天安門事件があり、その後に急激な経済成長へと舵を切る北京は被写体としてあまりに北井らしい。写したのは、壁の落書き、屋台売りの様子や室内でまどろむ人々。“ふつう”や“当たり前”の言わば小さな歴史だ。そして、これらの小さな断片的歴史は、直後に怒濤のように押し寄せるブルドーザーに破壊され、クレーンに乗ってどこかへ消えて行ったに違いない。  石原は北井の写真について「まるでベートーヴェンの第六交響曲。嵐のあとに訪れる穏やかさがある」と語った。その一瞬の穏やかさが、一人の写真家によって残されていたことを思うと、北井の仕事の尊さを感じずにはいられない。
鷲見和紀郎 作品展「平面」 2015年2月27日~2015年4月4日 立体作家、鷲見和紀郎の平面には、個性の強い立体では表現できないモノが流れ込んでいます。立体作品における鷲見の真骨頂は、閉じていない作品にあると思います。それは鷲見によってコントロールされ切った完結した物語ではなく、彼が手を離した途端に別の生命体として現れる、そのような立体です。面白いのは、そこで表現しきれなかったものが平面で完結するわけではないということです。それが今回の展示を開催するに至った理由です。平面においても彼の躍動する表面性が立体と同様に駆け巡っています。是非、ご高覧下さい。
渡辺兼人 写真展 2015年1月16日~2015年2月14日 渡辺兼人は、写真家なのである。 当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれないが、彼のこれまでの活動を振り返れば、本人は、実は小説家ないし言葉に関わることがしたかったのではないか、そんな風に勘ぐりたくなってくる。 仮にそれが当たっていてもいなくても、彼の表現の動機は、まず断片的な言葉として脳裏に溢れだし、最終的には写真として現れているように思われる。 つまり、頭で捉えた言葉の端々を同じ言葉によってトレースするよりも、身体が彼を撮影の地へと導くのである。彼には予感し期待する対象を捕まえるという発想がある。そのことは本質的になんと写真的であるのだろうか。 渡辺兼人はどうしようもなく写真家そのものである。
リニューアルオープン展 第2回 「4人の絵画」 2014年11月14日~2014年12月20日 絵を描くことに必要なこと。それは胆力である。 辰野登恵子は60年代から描きはじめ、それ以来絶えず自身のスタイルを情熱的に模索し続けている。今思えば、60-70年代は美術史に物語る軸のようなものがあると信じられていた最後の時代だった。辰野はあくまでも独自のスタイルを模索したからこそ、その足跡には美術史の物語の香りを感じることができる。 そして辰野に続くのは、物語が消えた世界の作家たちである。樋口佳絵は自身の微細な身体感覚を極めて平坦な二次元で遊ぶ架空の子供を通して表現し、五感を超えた空気感をそのキャンバスに漂わせる。長沢郁美の作品もまた子供が登場する。タイトルに反して表情に乏しい母娘の抱擁は上海に二人で暮らす不安と、それでも絵を描くこと以外に道がないというどうしようもなさの現れかもしれない。いとうまりは活動の拠点であるスペインのバルセロナをテーマに、独立の気運高まる都市と自己との繋がりを日本画の手法で表現する。 気が付けば全員女性である。目的などではなく、ただ動機とそれに応える胆力が筆を走らせている。まさに四者四様で興味津々たる展示である。
リニューアルオープン記念展 「5人の写真」 2014年9月26日~2014年11月8日 ZEIT-FOTO SALONをオープンした当初に画廊で扱っていたのは、マン・レイやブラッサイ、アンリ=カルティエ・ブレッソンといったパリ写真が中心であった。それから間もなく日本の写真に目を向けた時、目に入ってきたのが北井一夫だった。70年代から80年代にかけて見た彼の写真にはパリ写真ならぬ日本写真とでもいうような、歴史の1ページには記録されなくても記憶の中の決定的な風土が写っていた。でも、北井一夫自身はどこにいても北井一夫なのである。彼はその土地、そこに生きる人々を瞬間的に捉えることができる。 90年代には新しい表現者たちが次々に登場した。彼らの多くは写真技術を表現メディアの一手段と考えていた。目の前の被写体にカメラを向けるだけでは到達できない彼らの時代のリアリティを捉えようとし、写真表現を拡張させた。オノデラユキは写真で、写真発明以前の世界に生きた人々が持っていたであろう自由な想像力に思いを馳せる。実にクリティカルなスタンスだが、写真発明後に生きる彼女にはそれが逃れられない条件だからこそ写真で表現する意味がある。一方で、90年代の作家たちがある種の衝動に駆られた瞬間に捉えたスナップも試行錯誤の末に辿り着いた彼らのリアリティなのである。そこには光るものがある。今回は鷹野隆大、楢橋朝子の目新しいスナップが出る。 00年代に入り、写真を巡る環境は大きく変わった。写真家とそうでない人とが接近し始めているかに見えるが、そうではない。浦上有紀はインドに渡り、その土地の人々を撮影している。彼女には何か写真でしか満たすことのできないパッションを感じる。北井一夫からおよそ半世紀を経て登場した若い写真家に同じエネルギーが回帰しているようだ。今後がもっとも楽しみな作家のひとりである。
SPレコードと音楽家の写真 2014年7月9日~2014年7月12日 い技師が長年の研究を経て高精度なイコライザーアンプを創り上げた。 1930年代 -ワイマール時代- のSPレコードのダイレクト・カッティングは、 そのアンプと倍音装置を通じて驚異的に原音を再生する。 これは写真で言えばダゲレオタイプである。 目の前で若きコルトーがショパンのバラードを弾いている。 青年時代のフルトヴェングラーがハ短調シンフォニーを振っている。 夢である。 ZEIT-FOTOが収集してきた厖大なSPレコードコレクションは北京に収蔵される。 これが最後のコンサートである。                                  石原悦郎
いとうまり 作品展 「ヨクボウの庭」 2014年6月6日~2014年7月5日 私が、目には見えないもの“ヨクボウ”をテーマに制作を続けているのは、一人一人の欲望の根源が、その人を動かし、団体を動かし、結局は社会を作っていると思っているからです。 世の中に存在するたくさんのみえないものたち。 目に見えないステキなもの。コワいもの。不安なもの。 例えば、愛、ウィルス、感情、二酸化炭素、放射能、私はこれら全てを目で見て確認したことはありません。 目に見えないものを信じるか信じないか。それを認識するか認識しないか。行動するのかしないのか。すべては、人それぞれ、あなた次第わたし次第です。 それでも、私はつねに目に見えないものを意識していたいし敏感でありたいと思います。
北井一夫 写真展 「村へ」ーヴィンテージプリント展ー 2014年4月25日~2014年5月31日 「村へ」は1974年1月号から1977年6月号までの「アサヒカメラ」で連載しました。今回ツァイト・フォトで展示した写真は、毎月10ページ分の印刷原稿として入稿していた写真、つまり40年前にプリントをしたビンテージプリントです。40年ということを考えると多少の変色と傷みがありますが、よく耐えてくれたなという思いです。私にとってはとても懐かしい写真たちです。ぜひご覧ください。
橋本照嵩 写真展 「瞽女」 2014年3月14日~2014年4月12日 瞽女(ごぜ)は目の見える手引きを先頭に、町や村を三味唄や段物などを語って門付けする盲目の女旅芸人であった。江戸時代には歌川広重の浮世絵にも登場し、全国のいたるところでその姿を見ることが出来た瞽女だが、第二次世界大戦後にはその多くが転廃業を余儀なくされ、私が撮影を始めた時には数えるほどに なっていた。 43年ぶりの豪雪が残る1970年3月、新潟県高田市に住む「高田瞽女」の杉本キクイ親方(当時73歳・人間国宝)、養女の杉本シズさん(56歳)、手引きの難波コトミさん(56歳)の3人を撮影した。 1972年から73年には、新潟県三島郡越路に住む「長岡瞽女」の金子セキさん(60歳)、中静ミサオさん(60歳)、手引きの関谷ハナさん(61歳)を撮影した。’72年3月10日は越路町岩田のおセキさんの実家から、3人でその年の旅に出かける日だった。その日は、私の母が亡くなった日でもあった。 手引きのハナさんが「ごめんなっしょ」と玄関をあけても、その家の人の返事がないと次の家に手引きするのだった。 私は何度も3人を追いかけるうちに、その家の人の返事がないのは、裏で仕事をしているからだと知った。 私が「瞽女んぼさが来たすけぇ、銭こか米こ、もらわれねぇかのう」と裏に告げると、「ほう、そうかの。よく来られたのし」と、良い返事が返ってきた。それから私の男手引き旅がはじまった。 1974年、新発田市に住む長岡系の「はぐれ瞽女」土田ミスさん(66歳)を撮影した。結婚して瞽女仲間から離れたミスさんは、その後、夫と子供を亡くし、再び瞽女となってうすく見える目をたよりに近在の祭り日に独り門付していた。 橋本照嵩 
安齊重男 写真展 「MONO-HA by ANZAI」 2014年1月17日~2014年2月22日 具体という前衛芸術が真正面から「反芸術」をかかげたのとは対照的に、もの派は物質(もの)そのものの「反虚構性」をかかげたと言われている。安齊は日本のそんな11人のもの派の作家達を1970年代に身近に撮影している。「位相ー大地」や「空相」を発表した関根伸夫や、それを斬新な理論で具体化していった李禹煥の作品群、貴重な菅木志雄の作品制作のシークエンスがVintage作品として残されている。 ともかく芸術という舞台に、未加工な自然の物質を単なる素材として使うのではなく主役として登場させ、それによって新しい芸術言語を引き出す事に成功した彼らの存在は、ほぼ同時期にイタリアで誕生した前衛集団「アルテ・ポーヴェラ」との共通点も多く興味津々である。 (峯村敏明、沢山遼論文参考)
鷹野 隆大写真展” Hongkong・Shenzhen 1988 ” 2013年11月21日~2013年12月21日 25年前の夏、二十五歳だった僕は香港と(しんせん)を旅した。特段の思い入れがあったわけではない。魔窟と恐れられた九龍城(香港では九龍城砦)が間もなく取り壊されると知り、怖いもの見たさで訪れてみただけのことだった。19世紀末に一帯がイギリスに占領された後も中国が所有権を譲らなかったために無法地帯と化して生まれたのが九龍城だった。地元の人には申し訳ないが、それは僕にとっての香港のイメージそのものだった。 この旅で幸運だったのは、偶然知り合った香港人に日本語のできる人を紹介してもらえたことだった。その人のおかげで、九龍城に暮らす人と話ができたうえに、予定外のへも行くことができた。香港に隣接するは、トウ小平が進める改革開放の最初の実験地として経済特区に指定された町だった。指定後10年も経たないうちに大都市へと変貌していると聞き、一度訪れてみたいと思っていた。そのでは単に街を見て歩くだけでなく、その人が関わっていた裁縫工場を見学することもできた。悲惨というほどではないものの、蚕棚(かいこだな)の貧しい寮で暮らす若い男女に接することができたのは印象深い出会いだった。 その他にも語りたいエピソードは色々ある。しかし写真とエピソードは本質的に別物である。さらに言うなら、撮影意図とも別物である。写真の豊かさとは、そういった撮影者の“物語”に関わりなく何かを語ってしまうところにある。誰もがわかっている話なのだが、実践しようとすると案外難しい。我々はつい“意図”や“思い”で画面を支配しようとしてしまう。人は目論見なしにシャッターを切ることはできないものだ。そのときのモチベーションとは詰まるところ“絵作り”への欲求であり、自意識の発露以外の何物でもない。しかしそれでも自分の“物語”を越えて行かねばならないとしたら、この禅問答のような循環から逃れる最良の方法は間をおくことである。時間がすべてを解決してくれるとはよく言ったものだ。 四半世紀の間をおいて写真を見返すとき、撮り手の“物語”が消えた後になお残るものが明瞭に浮かび上がってくるだろう。自分の写真でこのような体験ができるチャンスは滅多にない(再びやろうとしたら、また25年、写真を塩漬けにしておかねばならない)。その結果として得る感覚があるとすれば、それはおそらく未来から今を見据える眼差しではなかろうか。今回の展示では、写真が孕むこのような時間性について、なにがしかの実感をつかむことができればと願っている。 2013年9月 鷹野 隆大
井津 由美子 写真展 「闇の彼方へ」  2013年10月18日~2013年11月16日 長時間露光の間に、微かに骨のきしむ音が聞こえたのは私の錯覚だったのか。  鈍い光に照らされて、頭蓋骨の精緻な輪郭と、ぽっかりくり抜かれた空洞の目が浮かび上がる。  朽ちた染み、表面を覆う無数の傷やひび割れ。  時おりそよぐ風に微細な白い粒子が舞い、透きとおる殻の内側には巻貝のような螺旋の海が隠れている。  命の不思議を凝縮したかのような脆く美しい存在。    そこに宿るわずかな生の残滓を捉えようとして、息を詰めたまま気配を追って行く。  いつのまにか、見つめているはずの私が、見つめられていることに気付く。  生と死が、時空の彼方で入れ替わり交わりひとつになる、そんな密やかな夢を見ました。                                       井津由美子
渡辺 眸 写真展 " Tenjiku "   2013年9月16日~2013年10月12日 たいていの旅は諸々のスケジュールも立てず歩き出してしまう。   はじめて東南アジア、ネパール、インドの大地に足を踏み入れたのは1972年、秋。   自他の対立というこだわりを持ったまま、   わたしの中のユートピア志向が天竺へ向かわせたのかもしれない。   インドは魔法の郷である。   あの途方もない混沌と調和の受容性に抱かれて、   衣を一枚一枚剥がされたプルシャ(原人)は、そこで箸の文化からカリーを手で食し、   トイレは紙の文化から水でぬぐい、靴の文化から素足で大地を歩きだした。   もとより具体的な目標はなく、無目的な旅がはじまったのです。   彼の地はもう、曼荼羅け・・・。   門はすでに開かれていたのです。わたしの心が開いてさえいれば。   -----魂の原郷に出会ったのです。そこで暮し、異界を行ったり来たり20余年。   これらの写真群は、遊行女、四半世紀の旅からの選択です。                                  渡辺眸
ナンヒョジュン 作品展 " PARADISE FOR PEOPLE " 2013年5月10日~2013年6月22日 朝鮮人として日本に生まれ、北朝鮮式の教育を受け、韓国に故郷と国籍を持つため、   国や民族といった類いのジレンマを運命とし、常に目に見えない壁や檻が立ち塞がっていました。   しかし、2010年から続いた各国の指導者あるいは独裁者の死、革命と暴動、政権交代、   東アジアでの領土問題や核の脅威など、数えきれない程のパラダイムシフトが訪れました。   その中でも金正日総書記の死去は、私にとって直結した大きな問題でした。   そして死去以降、タブーの解放、言動・表現の自由が訪れ、   イデオロギーは変化せざるを得なくなりました。   今回発表する新作シリーズの"フィルタリング絵画”は、そのようなパラダイムシフトの中   生まれました。フィルタリングする事で肖像画やプロパガンダ絵画にある遠近感を消滅させ、   人物と背景を多角形の色面だけで構成する事で、人物と背景が一体化した平面的な   空間(前にそびえる壁)が生まれ、主題と背景の滅亡と解放を導いています。   東アジア全土に政治の季節が訪れ、領土問題を始めとした国家間の不安定な状況が続く   このタイミングで、新作シリーズを日本で発表出来るのもイデオロギーへの執着があっての事です。   そして、この執着こそが唯一の私の希望なのです。  ナンヒョジュン
浦上 有紀 写真展「内奥」 2013年3月29日~2013年4月27日 今何かを計画的に常に考えて写真を撮るのではなく、   今閃いた、感じた、その時その時の何かを表現したい、という    内なる欲求の衝動に駆られ、    内なる欲求を衝動的に形にしようとしている。    私の中では、壊そうとすることと、構築しようとすることが    相俟って混じりながら対立しており、    そこでは現実の具象と日常と実用性という対象物を    自分の世界で既に打ち消している。    そして、自分の黒と白の焦点を見つめ、    浮き彫りにしていくその黒と白の強調が    私の芯を核を目覚めさせるのであり、    その線に添いながら、ぶれずに添いながら    廃屋の先を、滑らかな曲線で描けたらいいと    強い視線で思い続けている。    焦がし、焦がし続けるまでにその先を熱望する己の欲求は熱く、    たとえ弱まる時も、打ち拉がれて鳴り止むことは―――――ない。                                 浦上有紀
蔵真墨写真展「イ・ケ・メ・ン」 2013年1月18日~2013年2月23日 写真の歴史の中で女性が被写体になることは多く、それは様々に展開されてきました。撮影者の欲望に忠実に、あるいはその既成概念に挑戦するように。私はそれら先人の偉業を見て美しい、面白いと思うもののどこか満たされないものがあります。彼らの仕事を受け継ぎ、私なりにすこし進化させてみたいと思うようになりました。と考えているその一方で私はイケメンという言葉とそれが指し示すものが単純に好きです。イケメンとは男性の魅力を評価する言葉でイケてるメンズ、つまりかっこいい男の子くらいの意味ですが語感に変幻自在な軽やかさがあります。おもにギャルと呼ばれる比較的過激なファッションやメイクの若い女性たちが1999年頃から使い始めた、いわば俗語でした。そして私は街を歩いて、はっと魅力を感じる男性の写真を撮り集めました。何に魅かれたのかはそれぞれ違い、顔であったり、体つき、ファッション、仕草、表情であったりします。もしくはそれらが呼び覚ます個人的な記憶なのかもしれません。今作は見た目において、また制作行程を通して、よりセクシーな感じがすると思いモノクロームを選びました。見ることは誰の特権でもありません。一緒にすてきな男性たちを見て楽しみませんか。蔵真墨
楢橋朝子写真展「intheplural」 2012年11月20日~2012年12月22日 いま2000枚のプリントから写真集の編集作業を続けているさなかである。その中からまだ形が定まらないながらも気になってしかたのない写真、写真群を気になっている形のまま提示する。inthepluralとは「複数形で」という意味で、ひとつのシチュエーションを複数枚で見せることのみならず、複数形の楢橋写真、という意味も含む。2012年9月楢橋朝子
「ハ・サンリム作品展」 2012年10月12日~2012年11月10日
鷹野 隆大 写真展 「 立ち上がれキクオ 」  2012年8月24日~2012年9月28日 発表の機会を探すうちに撮影から十年近くが過ぎてしまった。当時の記憶が薄らいでしまった今の感覚は、お預けを喰らっている間にうっかり居眠りしてしまって、目が覚めたら何かをかすめ取られていたような、そんな状況に似ている気もする。当時たしか動画作品を中心に作っていた頃で、立ち上がる仕草が妙に新鮮に思えて、何人かに撮らせてもらった覚えがある。カメラを三脚に固定し、画面に入り込んできた対象をストロボの光で強引に静止させる。どのように写っているかは仕上がるまでわからない。そんなことを繰り返していた。写すという意識から逃れたかったのだと思う。その偶然の産物として生まれた“静止させられた動き”を並べたらどのように見えるのかを確かめたくて、キクオさんのものを選んでファイルにまとめた覚えがある。不思議なことに、当初からこれを動画にするつもりはなかった。 あれから様々なことを試みる中ですっかり後回しになっていたが、ようやくの出番である(と言ったら、他人事の様だろうか)。もちろん写真は動きを写せない。けれどもそのような感覚を少しでも沸き起こすことができたなら幸いである。 2012年6月 鷹野 隆大
ツァイト・フォト・コレクション展 「 バカンスの前に 」  2012年7月6日~2012年8月3日
富谷 昌子 写真展 「 キョウハ ヒモ ヨシ 」  2012年5月25日~2012年6月30日
ツァイト・フォト コレクション 展 「 Collection箱の中より 」 2012年4月10日~2012年5月12日
田中 麻記子 作品展 『 透 明 の 気 配 』  2012年2月24日~2012年3月24日 「真ん中の世界への探求:パステルのモノクロームに光る浮遊物」 私が試みてきた、現実と幻想の「真ん中」の世界を表現するとき、 実のところ私は、「真ん中」というより、むしろそのどちらかを描いているのではないか。 真ん中の世界のことは、表現し妄想しようとしているだけで、真ん中をただ忠実に描こうとはしていないのではないかと最近思う。 というのは、私が思う -今ここの- 現実が幻想であり、 私が妄想する幻想こそが今ここに現実として在ることを実感してきているからだ。 そのように、一筋縄ではいかない双方を捉え真ん中を描くことは簡単ではない。 いや、一生かかっても描けない透明の浮遊物のような現象なのだとさえ思えてきた。 近頃は、現実かも幻想かもわからないただ在る風景、ただ見える風景を描き、 そこから浮上、自然発露してくる「透明の浮遊物」を重ねて描いている。 幻想や現実とその狭間というものは、常に変化しており、とらえどころがない。 それら 対:私 という気配と感触だけが、確かである。 そしてそれらも透明で掴みどころはない。 この確認できない不安の中で絵画を持続させることだけが、「真ん中」の感触を透明に具現化する。 2011年12月 田中 麻記子
いとうまり作品展 『 欲望の根源』  2012年1月20日~2012年2月18日 人々はそれぞれの生活の中で 自ら選んだ価値観に従って 行動していると思います。 しかしその深い根源には目で 直接見ることの出来ない「欲望」があります。 私はその「欲望の根源」を 表現したいと思っています。                            2011年10月 いとう まり
鈴木 涼子 写真展 『 私は 』  2011年11月18日~2011年12月17日 私は永い間、男女(人間)という形式の中に安住していた様です。 しかし、それは結果的に私を拘束する事になったのです。 ここで新しい立場から男性や女性のメルクマールを再検討するとしたら、 その基準の引き方や根拠などは、どの様に捉えたら良いのでしょうか? 前作のANIKORAシリーズとは異なり今回の新作では、 私の中に同居している二つの性を通して、個としての私をより実存的に捉えたいと思います。 私とは何か。永遠の謎ですが、敢えてその中味を問う事にします。                            2011年10月 鈴木 涼子
進藤 万里子 写真展 『 bibo -SP KL TK- 』  2011年10月14日~2011年11月5日
蔵 真墨 写真展 『 蔵のお伊勢参り、其の七!京都・大阪 』  2011年9月9日~2011年10月8日 東から西(京都、大阪)に移行して撮影に入った時被写体の仕草の中に自分自身の姿が重ねて映し出される瞬間がある。レンズは一瞬の中にそれを取り込むのだが、それはまた同時に自分自身に対する愛の認識の瞬間でもあるのだ。私は他人の動作を素早く撮るのだが、そんな時こそ作品(写真)は生を得て光を放つ。 2011年7月 蔵 真墨
『 芸術と冒険 』  2011年6月10日~2011年7月30日 ■ 出品作家 杉浦邦恵 / 藤部明子 / 田中麻記子/ いとうまり / 賀敏 / 山脇紘資
『 母船を離れて - The Fruits of Adventures - 』 2011年3月11日~2011年5月28日 ■ 出品予定作家 三川義久/安斎重男/青木野枝/進藤万里子/田中麻記子/前田朋子/いとうまり/屋代敏博/山脇紘資/何杰
『 Our Favorites Part.2 -Photographs and Paintings- 』  2011年1月14日~2011年2月26日
鯉江真紀子 個展 2010年11月12日~2010年12月22日 人は、その時々の自分の心の状態によって同じ光景でも違うように見えてくるものです。ならば、異なる人間同士はいかに違った視点で同じ光景を見ているのでしょうか。また、人々がー体となり沸きかえるコンサートホールなどには、ある瞬間それぞれの個を超えた人々の共鳴があります。心の焦点をどこに合わせるのかが大切だと思います。「心の次元」を変えるだけで、人の目にはいつもの光景が違うように感じてくるのです。 2010年9月  鯉江 真紀子
東恩納裕一・山脇紘資・奥天昌樹・前田朋子4人展『 Our Favorites』  2010年9月24日~2010年11月6日 今回は、東恩納裕一、山脇紘資、奥天昌樹、前田朋子ら絵画作家によるグループ展を開催致します。ほとんどが新人と言っていい作家たちですが、彼らの作品に共通するのは、作品の中にあるオリジナルの魅力と絵の面白さです。それぞれ全く異なる独自の個性を放つエネルギーに満ちた絵画作品をどうぞお楽しみください。
オノデラユキ 写真の迷宮へ Part2. ープライベートルームー 2010年7月30日~2010年9月11日 東京都写真美術館で7月27日から開催される「オノデラユキ 写真の迷宮へ」展に合わせ、 当サロンにて「 オノデラユキ 写真の迷宮へ Part 2. -プライベートルーム- 」展を開催いたします。 写真美術館一館には到底収まりきれない彼女の作品群の一部だけでも、微力ながら当サロンで公開してみようという企画です。今回の写真美術館の個展には出品されない数々のシリーズや未公開作品、珠玉のような初期の小品の数々。その活動の当初から続く、多様性とユニークな実験性にとんだ作品を一期一会の気持ちで展示いたします。
鷹野隆大 個展「金魚ブルブル」 2010年6月18日~2010年7月22日 生きた金魚を掌(てのひら)に乗せてみた。ぬるりとしたものが、ぴちゃぴちゃ跳ねた。
くすぐったさをこらえながら、こぼれ落ちないように手をすぼめると、握り潰してしまいそうな危うさに指先が震えた。
小さな畏れと快楽の混ざり合ったあの感触――。

前作『男の乗り方』は、エロはどこから来るのかを探る試みでもあった。それは「距離に宿る」というのが、僕の得たひとつの答えだった。埋められない距離を埋めようとする欲望こそがエロを生み出す。では、その距離を埋めたいという欲望を発生させるポイント、いわば「エロスの着火点」はどこなのか。最近はそこに興味を向けている。もちろん一人ひとり違うはずだから僕自身にとっての着火点なのだが、しっかり掴もうとすると消えてしまう、くすぐったくて意地悪なもののように感じている。それは遠い昔の金魚の感触を思い起こさせる。

今回の展示は今年に入ってから撮影したものを中心に構成する。いまだ撮影していないものも多く含まれるだろう。存在しないものについて多くを語るのは難しいが、この「金魚掬い」がうまくいくことを願っている。
富谷 昌子 作品展 『 みちくさ 』  2010年5月11日~2010年6月12日
ツァイト・フォト コレクション 展 『 素晴らしきコレクション 』  2010年3月24日~2010年4月28日
蔵 真墨 作品展 『 蔵のお伊勢参り、其の五 二川から伊勢! 』  2010年2月19日~2010年3月13日
山脇紘資 作品展 "『俺の国』in ツァイト・フォト・サロン " 2010年1月12日~2010年2月13日
佐藤時啓 作品展『 Tree 』 光ー呼吸シリーズより 2009年11月27日~2009年12月22日
柴田 敏雄 作品展 『For Grey』 2009年10月30日~2009年11月25日 梅雨の時期にあかるい曇り空を見て美しいと思いました。グレーの階調だけでひろがる空がそれだけで美しく、ほとんど無意識に眺めてしまいました。写真に撮ってみようかとも思いましたが、やめました。以前、ある女性のギャラリストが、雲だけは撮らないでね、と笑いながら言った言葉が無意識に作用していたのかもしれません。そのときはどうしてなのか深くは聞きませんでしたが、ある年齢になると写真家は雲を撮りたくなる、そういう傾向があるらしいのです。空や雲にノスタルジーを感じるということなのでしょう。わたしはグレーの階調の美しさが気になったのです。カラーで作品を作るようになり、沢山のプリントを作ってきましたが、 最も気にかけていることは「色」のことよりもグレーについてです。カラーの作品の中に白から黒までの階調の美しさを出したいと思っているのです。多分このことと梅雨空の雲の階調が結びついて、私を引きつけたのでしょう。2009年8月 柴田敏雄
賀敏 作品展「 它城 Off City 」 2009年10月2日~2009年10月27日
アキ・ルミ 作品展 『 庭は燃えている - The Garden Is Burning 』 2009年9月1日~2009年9月29日
鈴木涼子 作品展『 ANIKORA-Kawaii 』 2009年7月7日~2009年7月31日
青木野枝 作品展 2009年6月9日~2009年7月1日
金村修 作品展 2009年5月8日~2009年6月3日
安斎重男 作品展『 Unforgettable Moments 』 2009年3月24日~2009年4月25日
Michael Kenna マイケル・ケンナ 作品展『 Mont St Michel モン・サン・ミッシェル 』 2009年2月10日~2009年3月14日
マツオカヒロ 作品展 「Scenes and Stories」 2009年1月13日~2009年2月5日
石内都展 2008年11月28日~2008年12月25日
伊奈英次 作品展 2008年10月31日~2008年11月22日
進藤万里子 作品展 2008年10月3日~2008年10月25日
オノデラユキ 作品展 2008年9月2日~2008年9月27日
Sherman Ong [Hanoi Monogatari] 2008年7月8日~2008年7月31日
鷹野隆大 作品展『ぱらぱら』 2008年6月6日~2008年7月3日 ”電動ぱらぱら”作品は様々な人物が服を脱いでいく過程を体の部分ごとに分節して連射し、そのフィルムをそれぞれ繋ぎ一本の映像としたものです。別々に撮影された身体は、いくつか縦に並べられたモニターに投影されることで完成します。しかし、再生速度が機械によって異なるため、そのうちに身体はばらばらになり、他人の身体と混ざり合うという結果が生まれます。今回展示するのは、その原画である一枚一枚のフィルムを現像したものです。「瞬間を選ばない」映像作品の瞬間が選ばれ、キャラリーの空間で、静止します。
梁工洲(リャン・ウェイジョウ)作品展『SCENERY』 2008年5月8日~2008年6月4日
櫻田宗久展『ムネトピア』 2008年3月21日~2008年4月22日
ジャック・ルノワール作品展 「ルノワールのオリーヴの木」 2008年2月14日~2008年3月12日
何杰 (フー・ジエ)作品展 2008年1月11日~2008年2月9日
柴田敏雄 作品展"Work : Man " 2007年11月30日~2007年12月22日
楢橋朝子作品展"half awake and half asleep in the water 06/07" 2007年11月2日~2007年11月27日
Kun Bu Lei 作品展 2007年9月28日~2007年10月27日
Aki Lumi 作品展[Trasceryscape ] 2007年9月1日~2007年9月25日
藤部明子作品展[Captured] 2007年7月10日~2007年7月31日
石内都作品展 [NNOCENCE -キズアトの女神たち-] 2007年6月12日~2007年7月5日
鈴木涼子作品展“ ANIKORA-SEIFUKU/ uniform ” 2007年5月18日~2007年6月7日
朝海陽子作品展 [Trigger] 2007年4月20日~2007年5月12日
Luo Xiaodong [My World] 2007年3月23日~2007年4月14日
愛国個展 2007年2月20日~2007年3月17日
屋代敏博『回転回オートクチュール』 2007年1月12日~2007年2月14日
Zhong biao works Exhibition 2006年11月24日~2006年12月22日
鷹野隆大「男の乗り方」 2006年10月13日~2006年11月16日
オノデラユキ作品展「オルフェウスの下方へ」 2006年9月5日~2006年10月7日